「被告人を死刑に処す。」
大方の予想通りの判決でした。
後の記者会見で、遺族の本村氏は、「死刑」になることで、遺族が救われるわけではなく、これは社会の秩序と正義のための判決であるという趣旨の発言をされていました。
対する弁護団は、即日上告したとのこと。
今、死刑の是非について論じるべきか否かという問題もありますが、以下の記事を目にしました。
世に倦む日日
この中で、99年、一審の求刑が出た直後に本村氏が出演したテレビ番組で、
「もし犯人が死刑にならずに刑務所から出てくれば、私が自分の手で殺す」
という発言をしたこと、そして以下のような考えを述べられていたことが綴られています。
死刑は廃止してはならない。死刑の意味は、殺人の罪を犯した人間が、罪と向き合い、犯行を悔い、心から反省をして、許されれば残りの人生を贖罪と社会貢献に捧げようと決心して、そこまで純粋で真面目な人間に生まれ変わったのに、その生まれ変わった人間の命を社会が残酷に奪い取る、その非業さと残酷さを思い知ることで、等価だという真実の裏返しで、初めて奪われた人の命の重さと尊さを知る、人の命の尊厳を社会が知る、そこに死刑の意義があるのだ、とそのように言っていた。
死刑に対する考え方で、その是非を問う記事や報道は数多く目にしますが、正直私の感覚でも彼の主張する根拠は充分に論理的で、被害者にとって、社会にとって、死刑といういわば極刑が日本の法律の中で成立することができる拠り所になっていると思います。
少なくとも、テレビで発言する評論家やしたり顔の法律家よりもよっぽど納得のいく論理です。
当然、被害者ですから、被害者の立場で物を言うのが人間というもの。
現に彼は、「もし無期刑で世に出たら、彼をこの手で殺す」とまで言い切りました。
それから9年の月日が流れ、彼は被告の贖罪の念のかけらもない無礼な態度や、弁護団による死刑回避の法廷戦術に振り回されました。
そして、その末に死刑の判決が下りました。
それでも、本村氏は、「犯人が心から贖罪の気持ちを素直に現し、そのことを背負って生きてゆく姿を見せていたら、死刑は回避されたかもしれない」と判決直後に発言しています。
いくら犯人が死刑になっても、殺された家族は戻ってきませんし、遺族が救われるわけではありません。
しかし、死刑という、国家が合法的に人の命を奪う事が出来るたった一つの法律が存在するには、あまりにも重い理由があるのは確かです。
かつてよど号ハイジャック事件が起こった際、時の総理福田赳夫はこう言いました。
「人の命は地球より重い」
人の命という極めて重いものを天秤に掛けてなお、それに釣り合うほどの重い罰は、国民の世論が実に80%という高い数字で支持しています。
裁判所は純粋に事実を追求しなければならない場所です。
差し戻し審では、1審、2審で出てこなかった弁護側の言うところの"真実"が新たに出てきました。
弁護団側は、これに対して「4年前から牧師に対して発言していた新しい証言が出てきたのだから、これが真実である」と、殺意そのものを争点としました。
その内容は、既報のとおりですので、あえて触れませんが、全くの自己中心的な主張でした。
私が疑問を持つのは、新たに証言として出てきた事実が本当であるかどうかということは裁判として理屈が通っていますが、それよりも被告にどれだけの贖罪の気持ちがあったのか、懺悔の気持ちがあったのか。
それが全くクローズアップされなかったこと。
それに対して弁護士も特に言及することを避けていたこと。
もしこうした事実があったにもかかわらず、マスメディアがこのことを報道しなかったのであれば、大問題ですが、本村氏の会見を見る限りそのようなこともなかったようですし、今回の裁判の流れを見ていると、極刑に至ったもっとも大きな要因はそこであったのではないかと思います。
果たして、裁判官は新しく出てきた被告側の主張はことごとく退け、極刑を選択しました。
上記のサイトに寄せられているコメントの中に、このような記述があります。
>XXさんに奥さんと子供さんがいるかわかりませんが、本村さんとまったくおなじめあった時、安田弁護士の弁護内容を受け入れることができますか?
あったことがない人は大抵そう言います。
私は加害者を殺してやりたいですが、殺された私の大切な人の為に、加害者を殺さない方を選びました。
殺人事件の一番の被害者は私達遺族ではなく、殺された人だと私は思います。
>被害者側からは「殺されたことだけが事実である」ということでしかありません
そうです。しかし、それで済ませてしまうなら、弁護士は必要ではありません。
殺害方法、動機、死体損壊状況、全て含めて事実なのです。
法廷は事実を争う為に、第三者の感情を持ち込んではいけません。
私は今の山口裁判が、亡くなった本村さんの妻子の為ではなく、本村さんの為に動いている気がしてなりません。
それを煽っているのはマスコミです。
そしてそれに乗っかっているのはあなた達です。
法廷というのは最高位に重んじられる厳粛な場所であると同時に、ある種密室でもあります。
そこで繰り広げられる"裁判"という行為は、そこにいる判事、検察官、被告、弁護人、証人によって進められます。
事実だけを追求し、それに対して罰を与える。
証言の内容がが本当であるのか、被告がその犯行を認め、贖罪の念が本物であるのか、そしてそれに対する量刑が社会にとって適当であるか。
この投稿者は、「殺人事件の本当の被害者は遺族ではなく、殺害された本人である」という論理も納得できます。
しかし、殺された本人が亡くなっている以上、どう頑張っても法廷で証言をすることはできません。
いわば、本当の被害者である殺された本人が出廷を許されない、欠席裁判なんです。
しからば生前、一番近くにいた、家族や恋人、友人がその代弁をするしかないわけです。
では、身寄りもない天涯孤独な人が殺されるのと、家族に愛された人が殺されるのでは罪の重さが違うのか、ということも問題です。
行き着くところは、人の命は普遍的価値があり、それを脅かす行為に対して純粋に判断を下すということが最も尊重すべきことなんでしょう。
鹿児島・運転手刺殺 「陸自に嫌気、失跡」 逮捕の19歳 殺すつもりで乗車
このニュースのように、「死刑になることを望んで、犯行を犯す」人間も見られるようになりました。
生きることに希望を見出せず、自殺願望がさらにゆがんだ形で出た結果ではないかと思いますが、こうなると、「死刑」という極刑が犯罪抑止に役立たないことになります。
しかし、死刑を廃止することは逆のリスクを生む結果になる。これは確実に言えることです。
そして、これら凶悪犯罪を犯す犯罪者は、判で押したように皆決まって幼少期の虐待や愛情の欠如が原因となってその末に犯行を犯すに至っています。
起きた犯罪に対してどのように罰を与えるか、ということと同時に、犯罪が起きない世の中を形成すること、これこそが根本的な改善ではないかと思って止みません。