秋葉原の事件以降、愉快犯による脅迫電話事件の発生やナイフによる殺傷事件が相次いでいる。何とも悩ましい事態だ。
捕まった犯人たち。
彼らが取調べで自供する動機は、主に次のようなものが多い。
「むしゃくしゃしてやった」
「誰でもよかった」
「世間に自分の存在を分からせたかった」
推理小説などを読むと、本の中で演じる犯人が犯行に及ぶ動機は、もっと重いものが多い。
それらは「身内や恋人を殺された復讐」であったり、或いは「自分の身分や地位を守るため」であったり、「カネのため」だったり。
中にはとても身勝手な動機を持つものもいる。
まあ、そもそもそれらの多くは架空の世界の話なのだけれども。
しかし、最近のテレビをにぎわす凶悪事件は、加害者と被害者の間に接点がない場合がほとんどだ。秋葉原の事件はその象徴的なものということになるかもしれない。
多くの犯罪者の犯行動機を聞くと、とても稚拙なものに聞こえる。
おそらく多くの国民も同じ感想を抱いているのではないだろうか。
だが。
彼らの口から語られる動機について、本当に「稚拙」で片づけて、「犯罪の取り締まりを強化する」ということだけで解決するものなのだろうか。
最近では、池田小事件の宅間守のように、自殺願望の強い人間が、死刑になる目的で犯行に及んだことは記憶に新しい。
自殺願望。
死刑目的の無差別殺人。
自殺願望からなぜ無差別殺人に結び付くのか。
人は心に闇を持っているという。
そりゃあ誰にもあるだろう。本当は悩みを誰かと共有することを望んでいるにも関わらず、嘲笑や冷笑されることを恐れ滅多なことでは悩みを打ち明けない。
そして人は孤独を感じ、心を閉ざしてゆく。
悲しいことである。
しかし、彼らの自供の内容を見ていると、実は彼らが心を閉ざす理由の一つに、
「相手に心を伝える方法が分からないのではないだろうか」
という疑問が湧くことがある。
悩み苦しみ、愛されたという実感をもったことのない人間が、自分の悩みを他人に打ち明ける術を知らない。
これが鬱積して陰惨な犯行にエスカレートしているのではないだろうか。
そんなことを、最近思う。
悩みを他人と共有する。
これは実に難しいことだ。
まず相手のことが信用できる人間でなければ、自分の心の中の醜い部分など打ち明けることなどできないし、結果孤独になってますます自分の心の殻に閉じこもり、悩みを自己完結してしまうようになる。
私は思う。
日本人の学力低下、凶悪犯罪の稚拙化と犯罪者の低年齢化。
これらは密接に関わっているような気がする。
日本は、世界的に見ても治安の特別いい国だ。
国民はその大多数がボケるほど平和というものが当たり前だと思っていて、民族や人種、宗教間の対立なども皆無と言っていい。
それは「国民性」とひと括りで語れば簡単だが、実は古くから日本人は実に巧みに他人同士のコミュニケーションをとってきた。
頑張ろうと思っている人間がいれば、「思いやり」の心をもって「励まし」、辛いと思っている人間がいれば、「思いやり」の心をもって「慰め」、疲れたと思っている人間がいれば、「思いやり」の心を持って「癒す」。
「思いやり」。
日本語には実に多彩な表現方法がある。
欧米のように「Yes」or「No」で自己主張するばかりではなく、言葉を受け取った相手の気持ちを考えて言葉を発する文化があった。
「こんなことを言えば、相手はどう思うだろう」
「こんなことを言えば、相手は傷つくだろうか」
「こんなことを言えば、相手が喜ぶだろうか」
そんなことを考えて、時と場合で言葉を選べるほど、日本の言葉は実に懐が深い。
「薔薇は薔薇の悲しみのため花となり、蒼き枝葉の陰に悩める」
昨今の犯罪加害者の供述を聞く限り、恐らく自分の言葉を誰かに伝えることができなかった、共有することができなかった、ということが直接の犯行動機になっているとしか思えないのだ。
人は人に相手にされなければひねくれたくもなり、どんどん孤独になる。
日本の国語教育は、本当に自分の気持ちや信念を、相手に伝える術を教えられているだろうか。
有名な作家の随筆や小説を教科書に載せ、テストでは文章の一部分を切り取って、その時の著者の気持ちを4択で選ばせる。
しかし、誰も著者の気持ちなど、わかりっこないのだ。
それは著者に対する無礼千万な行為だと、私は小学校の時に強く感じた。
外国の言葉を簡単にカタカナにして自分の国の言語に取り込み、独特のリズムでわずか五七五の17文字ですべてを表現してしまう、この国の言葉。
これは日本の財産であったはずだ。
私もこうやって今、ブログを書いているが、自分の国の言葉で、自分の気持ちを素直に表現できるということは素晴らしい。
素晴らしい、この国の言葉を使って。
今、教育に必要なのは、この国のコトバの見直しと、尊敬の念なのかもしれないと、テレビを見ながらふと思った。