
やっぱり・・と思う人もいることは分かっているのだが、この前借りたDVDのもう1枚、「アンドリューNDR114」にはどうしても触れられずにはいられない。
有名な映画だから、見られた方も多いだろう。
ロビンウイリアムズの真骨頂ともいえる映画だ。
ロボットとしてある裕福な家に迎えられたアンドリュー。
普通の、極一般的な大量生産のロボットであるはずの彼が、木彫りの馬を彫ったり、音楽に聞き入っている姿を見て、彼の主人(サムニール)に、人間性を見出され、彼にさまざまな教育を受け、徐々に人間に目覚めてゆくストーリー。
ネットでのいろいろな人の感想を見ると、原作より面白くない、とか、ロボット三原則に反してガラテアが生命維持装置を外すのはおかしいとか、いろいろ言われているようだ。
いつの時代も同じだが、何かと作品にケチをつけたがる人がいる。
まるで数学の公式のように、寸分違わぬプロットと、的確なストーリー展開、適切な展開のタイミングじゃなければ、俺は認めない、みたいな事をネット上でいう人もいるが、私は、そういう人たちのことを、貧しい感性だな、と思ってしまう。
確かに、そうかもしれない。言っていることは正しいのかもしれない。
だが、そんな緻密の計算をしなければ、そこに映画は成立しないのか、と思う。
この映画は、最初に見たときから好きであった。
ロボットが人間の感性や感情や持つようになる。
創造力を持ち、自由を求め、寂しさを感じ、それを表現することを求め、人を愛し、最後には死を受け入れるようになる。
これは、人の持つ当り前の本能であり欲求だ。
我々人間は、当然のことながら、このような高度なロボットを作り出すことが未だ出来ていない。
映画ではアンドリューは2005年に製造されたことになっていたが、2005年は3年前に過ぎ去ってしまった。
だが、いまだにロボットといえば、ラジコンに手足や関節がついて、環境の変化を感じ取ってプログラムに従って動く。
その程度のものしかできていない。
この話は、遠い将来、もしロボット工学が発展して人間の生活に深く関わってくるようになったとき、人間はロボットにどうやって接してゆくべきか、そしてロボットに万が一「人間らしさ」が備わった時に、それを作り出した人間はどういう選択をするのか、ということを暗示している。
人間はそんなロボットに恐怖を抱くのか、それとも受け入れていくのか。
自我に目覚めた機械を許容できるのか。
もし自我に目覚めたロボットが生まれたとしたら、「永遠の命」はとんでもなく苦痛だろう。
そして人間も、そんなロボットを受け入れることはできないだろう。
しかし、ロボット自ら、自分を人間と同じように死なせることによって、自分の一生を完結させたいと言ったなら・・
ミスのように、ロボットは所詮ロボットとして接するのが正しく、リトルミスやポーシャのように、人間がロボットに愛情を抱くのは間違いだと思う。
だと思うが、、もし「人間らしさ」がロボットに備わったとしたら、拒絶するという選択よりは、受け入れてゆくのが人間として自然ではないか、と考えてしまう。
もちろん、そんなロボットが生まれるなんてことは、絵空事かもしれないが。